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『氷点』後編です。

下世話な言い方をすれば、一難去ってまた一難。
いくら小説とはいえ、こんなにいろいろと無理難題を起こさなくてもねぇ、
なんて思いつつ見ています。

真面目に考えるなら、
原罪という言葉を、否応なしに突きつけられています。
キリスト教の考え方では、
罪は自罪と原罪とがあるのだそうです。
自罪は文字通り、人が自分の意思で自ら犯した罪。
原罪は、アダムによって犯された罪を
その子孫であるがゆえに人類が生まれながらに背負わされた罪。
『氷点』では、自罪と原罪が交錯しているがゆえに
見ているこちらは、何が悪で何が善なのか、
一層かき乱されてしまうのかもしれません。

自分が背負った原罪を、命を絶ってまで償おうとした陽子が、
生みの母親の罪には冷たく「許さない」と言い放つのですから
一体何が許されて、何が許されざるものなのでしょうね。
(良かったよ、結局は気づいてくれて)





どの記事かのコメントに書いたような記憶があるのですが、
昔、ある人に
「あたなは自分の嫌いな人に似ているから、嫌いだ」
と言われたことがあります。
私はその人から"嫌いな人"のいけない部分を何度も聞かされていて、
そのたびにどう答えていいのかわからずに戸惑っていましたから、
そんなふうに言われてしまうことに大きなショックをうけました。
でも、それは、その"嫌いな人"が持っていた、人としていけない部分を
私も持ち合わせていたという私の自罪でした。
私はその人と本心から仲良くしたかったけれど、
その言葉を聞いた時、きっとそれはできないことなのだと感じました。

数年後、"嫌いな人"は、残念なことに亡くなりました。
人にせよ何にせよ、失ってから見えてくる"本当"というものがあります。
きっとその人は「嫌い」と言い切っていた人の"本当"が見えたのだと思います。
"嫌いだった人"は、その人の中で"美しい人"に変わりました。
それは本当にうれしいことだった。
本当に。

そして、私は残されました。
私は、「嫌な人」のまま。

そう、会ったことすらないその人が突然逝ってしまったことで
私が味わった『残された」という感覚は本当に不思議で苦しいものでした。
いけない部分を持ち合わせている私の自罪は
それを直さない限り変わりものではありません。
もし私がいなくなったとしても、
私の"本当"が美しいものである保障もどこにもありません。
ただ、結果的には同じことであっても
「あなたのこういうところが嫌いだ」と言われたのなら
私の心はまだ救われたのではないかと考えてしまうのです。
そして、「私の嫌いな人と似ているから嫌いだ」と言われたことで、
自罪を原罪にすり替えてしまいそうになる自分に虫唾が走り、
それをさせるのはあの人だ、とやはりすり替えをしてしまいそうになるのです。

きっと、『氷点』の陽子の境遇のように
特殊な場合にしか原罪は存在しないのだと思います。
やはり、ほとんどすべての罪は
人が自ら犯した自罪なのです。
他者の罪を許すことも容易いことではないけれど、
どうしたら自分の中にある罪と向き合うことができるのか、
そちらの方が数段難しく、苦しいことのような気がします。
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Top▲ | by mikansky | 2006-11-26 23:31 | other
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